現在の銀座三越から昭和通り交差点にかけてのゾーンには、なんと江戸時代に作られた運河が流れていました。この河は幅が55メートル(三十間・さんじっけん)あったので、三十間堀川と呼ばれ、そこにかかっていた橋が三原橋。ところが、昭和20年の東京大空襲のおびただしいガレキを処理するために、東京都は昭和24年から、この三十間堀の埋め立てを開始したのです。


昭和27年、埋め立て後の三原橋を活かして、フランク・ロイド・ライトに師事した昭和のモダン建築の旗手・土浦亀城(つちうらかめき)のデザインによる「三原橋地下街」が完成。現在のシネパトス1の位置には、ニュース映画の専門館「テアトルニュース」が開館。俳優・竹脇無我の父で名アナウンサーとして知られた竹脇昌作の名調子によるパラマウント・ニュースなどがハイカラに上映されていました。昭和29年には現在のシネパトス2、3の位置にあったパチンコ店の「銀座ゲームセンター」が「銀座東映」に生まれ変わり、文字通り映画館の街になりました。


昭和42年10月3日、恵通企業株式会社(現 ヒューマックスグループ)は「テアトルニュース」跡に「銀座地球座」を、翌年9月1日には「銀座東映」跡に「銀座名画座」を開館。洋画、邦画のピンク映画を中心に上映し、後の白川和子、谷ナオミといったスターの実演付きの興行が人気を博しました。これが現在の銀座シネパトスの前身です。


昭和63年7月、「銀座地球座」は「銀座シネパトス1」に、「銀座名画座」は「銀座シネパトス2」「銀座シネパトス3」の2館に改装。インディペンデント作品、アート系、ドキュメンタリーにはじまり、ホラー、エロ、アクションのB級、C級作品に至るまで、映画の愉しみをとことん追求した異色の番組編成で本当の映画ファンたちを魅了し続けてきました。


平成21年7月には、現支配人の鈴木伸英が、シネパトス3館のうちの1館を常に邦画専門の名画座として興行する「名画座宣言」を発表して話題となりました。このスタート当初より、映画批評家・樋口尚文とともに数々の旧作の特集上映、キャスト、スタッフを招いてのトークイベントを怒涛のごとく敢行、お客さまの熱い熱気に支えられながら日本映画を再検証する試みを重ねてきました。そしてこのたび、閉館を目前にした銀座シネパトスに豪華なキャスト、スタッフが結集、同館を舞台にした映画「インターミッション」が制作され、最後のロードショー作品として上映されます。これは日本映画史に類を見ない”事件”です。